私の祖父香川菊次は若い頃からうどん作りの名人といわれ、大正15年にうどん店「香川屋」を始めました。
父の政義は大正10年生まれで子供の頃から祖父のうどん作りを手伝い、学校卒業後すぐに家業の「香川屋」に入り、祖父菊次の頑固で厳しい指導を受け名人といわれるようになりました。
私は昭和22年に政義の長男として生まれ、遊びたい盛りの小学校3年の頃には忙しい時などは朝の2時には家業である香川屋の手伝いをさせられていました。大学入学のために上京し高松を離れるまで祖父と父親の本当に厳しい修行が続きました。
昭和38年ごろには香川県を訪れるお客様も増え「讃岐うどん」も有名になっていきましたが、伝統製法の「足ふみ工程」に関して 食べ物を足で踏むことが問題になり香川県の方針で「足ふみ禁止令」発令が検討され始めました。
そこで衛生的な機械打ちのうどんを作る「さぬき麺業」を立ち上げ、うどん店に麺を供給できる体制を整えましたが、結局「足ふみ」は禁止にならず「さぬき麺業」からうどんを仕入れるうどん店はありませんでした。
父、政義は非常に努力家で、当てが外れてうどんが売れない中でも ゆでうどんの包装材料を改良して賞味期限の延長に成功し、麺帯の圧延装置考案し美味しい麺の大量生産には成功したものの業績は振るわず 財産を投げ打ち頑張りましたが資金が続かず、絶えず「廃業」を覚悟していたようです。
そんな中、私の大学卒業の年(昭和45年)に前述の大阪万博が開催され、万博でうどんを販売する話が舞い込みました。賞味期限を心配せず、美味しい麺を大量に作ることに成功したさぬき麺業が初めて評価されたわけです。
その会場では万国博覧会期間の3月から9月の6か月間183日の間に、1日当たり約1万人ものお客様が押し寄せ、のべ約160万食ものうどんを販売するに至りました。
これにより香川の「讃岐うどん」は一躍全国にその名を知られることになったと確信しております。(第一次ブーム)当時、そのうどんを美味しそうに召し上がって頂いた多くのお客様の顔を思い浮かべると、感慨深いものがあります。
その後、ディスカバーJAPANブームに乗り 弊社でお土産用の賞味期限の長い「半生うどん」の開発に成功、また、国鉄の宇高連絡船甲板の讃岐うどんの店が、四国に出入りする乗船客の評判となったり、冷凍讃岐うどんが開発されて全国で発売されたりと、徐々に讃岐うどんの認知度は高まり、1988年(昭和63年)4月の瀬戸大橋開通で一気に大ブームを迎えました。
この第2次ブームは県外からの客数百万人規模のお客様が、県内うどん店で実体験した内容を各種の書物や情報として紹介されたことで全国に拡散し、県内のこだわりうどん店などが探訪の対象となって「うどん店巡り」が始まりました。
さらにこれらの体験が情報となって全国に発信されるという循環波状効果となって、讃岐うどんは地元のうどん事業者の想像の範囲をはるかに超えて全国のうどんの中でも特徴的なうどんとして認知されていきました。
今や香川県は「うどん県」となり讃岐うどんは日本国内だけでなく海外にも進出する事業者も現れ、世界的にも認知して頂ける様になってきました。
ただ、今後も讃岐うどんの店が全国あるいは全世界に拡大したとしても、その原点は香川県民のうどんをこよなく愛し日常食とする深いうどん食文化にあると思います。
私はこの食文化を守るべく、家庭などにおいてもうどんを打つことができるという伝統を守り引き継いで行くために、一般の方向けに手打ちうどん体験道場も開催しており、いつでも手打ちうどんを学び体験することができるようにしております。
また香川県や本場さぬきうどん組合、さぬきうどん研究会などが開催するうどん教室でも讃岐うどんの歴史や文化について学んだり、手打ちうどんの作り方を体験していただいたりしております。
このような活動を通じて、讃岐の伝統のうどん文化を守り、発展させてゆけるよう努めて参りたいと考えております。