讃岐うどんの歴史は、讃岐が生んだ弘法大師空海が、遠く中国から持ち帰ったのが始まりと伝えられています。
空海は延暦804年31歳の時入唐。1年あまり長安に滞在して806年帰国しました。そのとき、持ち帰ったのが「うどん製法」「小麦」「唐菓子」のいずれかであったと言われています。
以来、讃岐ではうどん作りが盛んになり約300年前からの江戸の元禄時代の頃、狩野休円清信が「金毘羅祭礼図」(屏風一双)に3軒のうどん屋が描かれており、早くも金毘羅さんで「うどん屋」が現れたことを証明されます。
また、1712年ごろ「和漢三才図絵」という当時の百科事典があり、ここに「諸国皆有之 而讃州丸亀之産為之上 為饅頭色白」(諸国に皆これがあるが、讃岐丸亀の産を上とする 饅頭として色白し)とあり、上質の麦の産地であったことが分かります。
「さぬきうどん」の発祥地は諸説あり、この絵から琴平町からと言う説もあり、また綾川中流の滝宮説など諸説があるが確たる証拠はありません。
讃岐の地で盛んに「うどん」が作られたのは、上記のように昔から上質の小麦が生産されたこと、品質のよい「いりこ」が多く取れたこと、古代から塩の産地であり製塩が盛んであったこと、また小豆島は江戸時代から有数の醤油生産地であったことなど「うどん」作りに適した地であり、農家で代々受け継がれ磨かれてきたうどん打ちの技術があったためと思われます。
もう一つ忘れてはならない事があると思います。
讃岐地方は小作地が多く、それに加えて降雨量が少なく度々かんばつに悩まされ、水田で作られる米の安定的な生産が出来ない土地であった。そのため米は贅沢品であり代用食として麦で作った「うどん」は欠くべからざるものであった。そんな生活の中で必死に麦を作り、「うどん作りの技術」を伝え・磨いてきたのが「さぬきうどん」の源流であったともいえます。
戦後オーストラリアから輸入されたASW(オーストラリア・スタンダード・ホワイト)は色・つや・食感に優れ、大阪万博以降の何度かの「さぬきうどん」のブームがあったことは周知のとおりです。